【Perder por el pico】
十月になると催される恒例の華やかなダンスパーティ。思い思いの装いで、多くの生徒たちが広々とした空間で手を取り合って舞っている。
しかしその場にアンドリューの姿は無かった。
真面目で少々お堅い(そこがいいのだけれど)友人をパーティ会場へと向かわせるという役目を終えた彼女はまだ会場前のロビーでソファに腰かけていた。
とうに支度を終え、いつでも中に入れる状態ではあったがまだ会場入りする気にならなかった。
到着してすぐに中に入ってしまうのが何だか勿体ない気がしたのだ。
とはいえ、そんな彼女もただ座っているのではない。彼女は会場入りする同級生や後輩たちの姿を静かに見つめていた。
そしてある女生徒が彼女の前を通り過ぎようとしたその時、アンドリューはねえ、と口を開いた。
「リボン、直した方がいいかもよ」
目の前を通り過ぎようとしている下級生に声をかけた。背中で結ばれていたリボンが緩まって解けそうになっていたのだ。
「え?ホントだ…」
指摘された箇所を何とか見ようと首を動かした下級生は、あっと声を上げた。
「自分でやると意外と難しいよね」
音もなく静かに席を立つと失礼、と一声掛けて彼女の背後に回る。緩んだサテンのリボンを手に取り、丁寧に結び直し始めた。
締め付けて息苦しくならないように、でも簡単に解けないようにしっかりと結ぶ。最後に形を整えれば、彼女の背中に淡い色合いの蝶々が羽を広げた。
ついでにセットされた髪から浮き上がっていたピンや髪飾りを留め直す。
「全部一人で?」
「あ、はい。でもあんまり上手く出来なかったみたいで……」
アンドリューの問いに彼女は少し気恥ずかしそうに答える。しかしその謙遜をアンドリューは受け取めなかった。
一生懸命編み込んだ髪も迷いに迷って選んだのだろうアクセサリーも全て彼女の努力の証だ。
「一人でここまでやったんだろう?凄いと思うよ」
素敵だよ、そう言って頭を一撫でしたいくらいだったが折角のヘアメイクが崩れてしまうかもしれないのでそれは我慢した。
その代わりに両肩に手を置くと、くるりと扉の方へと体の向きを変えさせた。
「さ、楽しんでおいで。可愛い妖精さん」
背中をポンと叩くと彼女は一礼して会場の中へと入っていった。彼女もきっと誰かと約束しているのだろう。マスクの下から覗いた瞳は目の前のアンドリューではない、別の誰かを見ていた。
「青春だなあ」
彼女の背中を見ているうち、言葉がポツリと漏れていた。
学生という道の終着点が目前に来ている自分には彼女が羨ましく思えた。叶うならあと数回はこの空間に浸りたい。でもそれが叶わない事を分からないほど幼くもないのだ。
きっとこういう感情を淋しいと言うのだろう。
「あれ。アンドリュー先輩だ」
下級生が向かっていった方を眺めていると後ろから声が掛かった。
振り返ればそこに立っていたのは二年生のライトだ。
後ろに引っ詰めた一つ結びはそのままにトレードマークのゴーグルを外した彼もまたパーティ用に着替えてきたようだ。
「意外ッスね。もうとっくに会場のど真ん中で派手に踊ってるかと思ってたッスわ」
「そんな派手な事をするように見えるかい?」
「いや、するっしょ」
自分はやりたい事をやろうとしたらそうなっていた事が多いだけで特別目立ちたがりというわけではない。
実際、彼が言った事もやろうと思えば問題なくやれてしまうが改めて他人からそう指摘されると何だかおかしくてフフッと笑みが溢れてしまう。
「まあいいけど。じゃあ俺はそろそろ──」
「待て、待てライト」
そう言って扉の方へと向かおうとするライトを呼び止めた。
一方の彼は素直に従うも理由の分からない制止にキョトンとした表情で先輩を見つめる。
「君、その格好で行くのかい?」
「うーんそっすねえ。俺カッチリした服って好きじゃねえし」
アンドリューが呼び止めたライトの格好はその言葉の通り『かっちり』とは程遠いものだった。
緩んだネクタイに加えて去年であれば恐らくジャストサイズだったのだろうパンツは寸足らずになっており、袖丈も際どい。アンドリューからして見ればこう言った格好をするのであれば髪型ももう少し手を加えたいところだ。
「無理強いはしないつもりだが、うーん…髪か服、せめてどっちかは整えた方がいいな」
そう言うが早いかアンドリューは後輩の手を引くと先程まで彼女が座っていた椅子にライトを座らせた。
きつく縛られた髪ゴムを取り、手櫛で梳かしていく。日頃の様子などからは分からなかったが、意外と柔らかい毛質だったことに少し驚く。
「君の髪、初めて触ったけど意外に毛艶良いね」
「そーなんっスか?」
「そーなの」
この反応を見るにどうやら天然物らしい。この艶を目指して日々奮闘している者がいたらジロリと目を向けるかもしれない。
でもきっと彼はその理由も分からないで一体何なのだと困惑するのだろう。
その光景を思い浮かべるとアンドリューの口端が思わず上がってしまう。
「つーか先輩、さっきみたいなの他にもやったんスか?」
「そんな大したことはしてないけどね」
先程の女生徒とのやり取りをどうやら見ていたらしいが、アンドリューからすればただ手直ししただけで本当に何もしていない。
「いや、会場前で他のヤツの手直しって普通しなくねッスか?」
恐らくは自分を含めて言ってるのだろうライトの指摘にふむ、と声を漏らす。言われてみればそうかもしれない。
アンドリューは一拍置いてからほら、と口を開いた。
「帰ってからボタンの閉め忘れに気付いてショックってあるだろ?」
「あれは地味に凹むからね。そういうのを少し減らしたかっただけさ」
ふーんと語尾の上がった声を聞くに、まだ少し合点がいかないようである。
彼にはまだ少し実感の湧かない話だったかもしれない。
「君はあと2回出られるかもしれないけど私は今年が最後だからね」
「だから、今日参加する子たちには出来るだけ最後まで楽しかった思いで満たされていてほしいんだよ」
「正直、適当にって言うのをあまりしてほしくないしね。まあ何であれ上級生の我儘と聞き流してくれ」
殆どがアンドリューが語っている状態ではあったが、そんな他愛のない会話を交わしていると結び直していた髪も手櫛で済ませた割にはまあ何とかいい具合に整ってきた。
それまで大人しく彼女の話を聞いていたライトは、髪ゴムがパチリと締まる音で口を開く。その声色は考え込んでいるような様子だった。
「その形から入る感じ、何かアレみたいっすね。えーっと何だっけ。昔お遊戯会でやったやつ。えーっと…」
(おとぎ話か何かかな?)
思い出せそうで思い出せない、そんな調子でうんうんと唸っている後輩の頭をアンドリューは黙って見つめる。
すると暫くしてあっと弾んだ声を上げた。
「アレだ!何とか姫に出てくる魔法使う女王!」
「ほぉーん……」
この場に偶然通りかかった生徒は後に語る。アンドリュー・ラッセンのあんな冷めた声を聞いたのは後にも先にもあれが初めてだったと。
明らかに空気が変わった。それまで穏やかな空気だったその場は急速に、キンキンに冷え切った。
そんな場を凍えさせる風を吹かせた犯人は言うまでもなく──
「ライト・エアリアル」
これまでにも空気を読めない所がある、と言われる事が多かったライトでも空気の変化を背後から感じ取っていた。
振り向きたくない。だが振り向かなければならない、そんな圧が背中から漂ってきているのだ。
「な、何すか?」
ライトはゆっくりと振り向く。その先にあったのは笑顔のアンドリューだった。ニッコリとしたその表情は一見優しそうに見えるがそんな事はない。目の奥が笑ってないことくらい、鈍感なライトでも一目瞭然だった。
「私を『白雪姫』の『女王』と言いたいなら、君は毒リンゴで眠らされる覚悟があるって事だ?」
「え、え、何で?」
先程整え終えた彼の頭をガシッと掴んだ彼女が続ける。
「怒った女王は魔法を使うんだぜ?」
「え?え?」
つい先程思い浮かべたような困惑の表情を見せるライトのことなど、どこ吹く風と言った様子で触媒を片手に装着しながら口の中で何かを呟いている。
「この魔法は専門外だけどまあいけるかな──うん」
よし、と一言。それに続いてグローブを嵌めた指をパチンと鳴らす。するとライトの身体を光が包んだ。
「な、何じゃこりゃー!」
その光が消えた途端、ライトは驚愕の声をあげた。
サイズの合わない濃紺のスーツは純白の礼服に変わり、先程整えられた髪は平時よりも少々伸びてさらりとした一つ結びへと変わり、ひっ詰められていた前髪が額から一房垂れ下がっていた。
「先輩!何なんスか──」
その先の、恐らく文句へと繋がっていくだろう言葉が紡がれることはなかった。
アンドリューが再び指をパチンと慣らすと、スルリと生み出された仮面で片目と口元を覆われたのだ。
「何なんスかこれー!」
突然口を塞がれ、もごもごと喋りづらそうにするライトにアンドリューは何も言わず、今度こそ正真正銘のニコリとした笑顔を向けた。
そして外した触媒を小さなバッグにしまい、ソファテーブルに置いていた仮面を手に取る。
「ライト・エアリアル」
今一度、自分の名前を呼ぶ先輩の方を向く。彼女は会場の扉へと向かい始めていた。
「君はもっとボキャブラリーを増やした方が良いよ」
振り向きざまにそう言い残し、ウィンクを一つ見せるとアンドリューはそのまま華やかなパーティ会場へと消えていった。
・Perder por el pico = 口で身を滅ぼす(口は災いの元の西語版)
・シンデレラに出てくる妖精と言いたかったライトと後からもしかしてと思ったけどまあ面白いから良いかとなったアンドリュー。