【 さよならエデン 】
雨は嫌いだ…おれの居場所を無くすから……
「東君……」
「……先生?」
不意に呼ばれたような気がして、足を止めた。辺りを見回してもそれらしき人影は見当たらない。どうやら空耳だったらしい。
「……あ、そうだ!行かなきゃ!」
聞こえたかも知れない声よりも大事な事を思い出し、慌てて歩きだす。そのせいで思わず転びそうになるが何とか体制を持ち直し、今度はゆっくりと歩きだした。
この前、偶然立ち寄った店でとあるタイピンが目に入った。誕生日や記念日を控えているという訳ではなかったが、彼に似合うと思ったデザインのそれを贈りたいと思って、迷わず購入した。
彼は喜んでくれるだろうか。期待と少しの不安を胸に、雨が降り出しそうな彼のアパートへ向かった。
いつもの様にアパートの階段を上がり、部屋の扉の前に立つとポケットから鈴のついた鍵を取りだした。彼と自分が恋人という関係になって少し経った頃に渡された、彼の部屋の合鍵である。
一度深呼吸してから、トントンとノックをして鍵を開ける。
いつも扉を開ければ、そこには彼の姿が在って、自分を迎え入れてくれる笑顔がそこには在る。その筈だったのに……
「先生、おじゃましま……え?」
そこには何も無かった。姿も笑顔も、それどころか彼の愛用していたパソコンも本棚も何もかもが無く、ただ空っぽの部屋だけがそこには在った。
少し浮かれていたから、部屋を間違えてしまったのかもしれない。そう言い聞かせて扉を閉め、扉に付いている部屋番号の書かれたプレートの番号を確認する。
一つの、確実に近い可能性が頭を過ぎったがそれを認める事は出来なかったし、認めたくもなかった。その一心で何度も見返しては記憶と照らし合わせた。
少しすると、隣の部屋から派手な格好をした水商売風の女性が出てきた。これから出勤するのだろう彼女は、プレートを眺めている東を見て不審そうに声を掛けた。
「あのー、その部屋に何か?」
「え?あ……えっと、ああ怪しい者じゃないんです!えっと、その……こ、ここの住所に手紙をだしたんですけど、戻ってきちゃって……何でだろうと思って……その……」
突然声を掛けられた事に驚いて、しどろもどろになりながら思わず嘘をついた。誤魔化しきれるかどうかは分からないが……。
「え、そこの部屋?そこの部屋ならもうずっと空き家よ?」
「え……?」
キョトンとした表情の彼女が言った言葉に耳を疑った。可能性が、確実へと変わって行くのを無意識に感じた。
「アタシぃ、ここに住み始めてもう3、4年経つけどその間もずっと空きっぱなしよ?」
悪意の無い彼女の言葉が、東に残酷なまでの現実を突き付けた。
住所間違えたんじゃない?と言う彼女の言葉は、頭が真っ白になっている東の耳に届く事は無かった。口を開いても礼を言うのが精一杯で、彼女が去ると空っぽの部屋へ再び足を踏み入れた。
誰も居ない、何も無いその部屋に足を踏み入れる。部屋を見回しても確かにそこには在った筈の物が、何も無い。
少し洗い物が溜まっている流しも、ちょっと怖い内容の小説などが並んだ本棚も、何もかもが無い。部屋の主さえ、居ない。
部屋の真ん中まで辿り着くとそこにペタンと座り込んだ。そして理解してしまった。
愛した人は、この世から消えてしまったと言う酷い現実に―――
「やだ……やだよ……先生……」
理解と同時に溢れるのは堪え切れない思いと、涙。
「う、うわあああああああああああああああああああああ!!」
「せんせ、せんせぇ……やだぁ……、ひとりに、ひとりにしないで……っ」
どんなに泣いても、どんなに叫んでも自分を包んでくれた温もりはもう何処にも無い。
それでも、ただただ彼を呼んだ。
本格的に雨が降りだした街の中を歩いた。よく見知った街なのに、自分が何処を歩いているのか分からない。
部屋を出てからずっと歩き続けた、力の入らない足はとうとう歩くのを止め、膝はガクリと折れて地についた。
「う、うぁ……」
全身が濡れていくとか、あれだけ泣いたのにまだ涙が出てくるとか、気にする余裕なんてなかった。
雨は嫌い。おれの、グラウンドと言う居場所を無くすから。
それでも、あなたがいるなら雨も好きになれた。
なのに、あなたがいなくちゃおれの居場所はどこにも無いのに
おれの居場所は、もう無い
(雨は、嫌いだな……)
(ん?どうしてだい?)
(だって、グラウンド使えないから……学校居る理由、無くなっちゃうから……)
(じゃあ雨の日は俺の家においでよ。勿論、雨の日以外もね?)
(……はい……!)
礼慈先生(@セイラさん)お借りしました