あんころもち

【 僕から僕たちへ 】



 その市場に一人の少年が立っている。市場を行き交う人や荷馬車の立てる砂埃が目に入らぬよう、俯いている少年の両頬は腫れていた。
この場に立つほんの少し前、粗相をした罰として主人に折檻されたのである。主人と言っても少年を雇っている訳ではなく、自身が管理する商品の中に少年がいるだけだ。
 木製の値札を首から提げ、両手足には逃走防止に子供の身体に不釣り合いな程に重厚な錠と鎖を付けられたまま立っている少年の姿に異を唱える通行人はいなかった。
少年が被差別対象である『キュビエの民』である事を皆が知っていたからである。
許可なく指定居住区から脱走した民が捕縛された場合、田舎の荒地で強制労働を強いられる事が殆どだが、少年のように人身売買の商品として売りに出される事も珍しいケースではない事も周知の事実だった。
 しかし少年にとっては腫れた頬の痛みよりも、憐憫とも侮蔑とも取れる通行人の視線よりも、自分に背を向けて遠ざかっていく母の記憶の方が心に痛みをもたらした。
母は何故置いて行ったのか。その理由が幼い少年にはどうしても分からなかった。
 自分に背を向けて走り去っていった後、自分を捕まえた大人たちの手によって暗い部屋に連れて行かれ、懲罰として回数が分からなくなるまで鞭で、棒で何度も叩かれた。
殺されないだけ良いと思え、これは国家の恩情である。そんな言葉を数度投げられた気がした。懲罰が終わると、皮膚が裂けて滲んだ血を洗い流すように冷たい水を掛けられ、寒さと痛みに震えながら暗い石牢の床で夜を明かした。その時も、夢に出てきたのは母の後ろ姿だけだった。
 今もまた、その時の事を思い返して下唇を噛んでいると、顔を上げていろと主人に背中を蹴られた。反論も謝罪もせずに緩慢とした動きで顔を上げ、片目を覆える程に伸びた前髪の間から市場を歩く人の流れを見つめていた。

 暫く見ていると少年の立つ店から少し離れた所に、ジッとこちら側に顔を向けている男が立っている事に気が付いた。値踏みでもしているのだろうかと思いながらその男の挙動を眺めていると、不意に男が大股でこちらに近づいてきた。
少年の目前に立った空色をしたボサボサ髪の男は、無言のままにその金色の目で彼を凝視していた。許可なく喋る事を許されていない少年もまた、男の様子に異様さを感じながらも黙ったまま、彼の表情を見るしかなかった。
 「君、母親の名は?」
 男の突然の質問に少年は思わず目をぱちくりさせた。年齢を聞かれた事はあっても、名前を聞かれる事など無かったからだ。
問いの意図が分からず主人の言いつけもあって口ごもっていると、男は焦れたように頭をガシガシと掻きながらもう一度同じ質問をしてきた。
少年は振返り、自分の背後に設置されていた天幕を見た。入口の幕が垂れているから恐らく昼寝でもしているのだろう。それなら、二、三言なら話してもバレないだろうか。
「――か、母さんの名前、セナ、です」
「セナ。セナ・キュビエか?」
 母の名を告げ、更に被せてきた問いに対して少年はコクリと頷いた。すると男は、目を一度カッと見開いてから三日月のような弧に歪め、ギザギザに尖った歯列がよく見える程に大きくニィと笑みを浮かべた。
その表情のまま、膝を折って少年の顔に触れながらパーツの一つ一つを確認し始めた。頬、耳、輪郭、そして目の色まで。
「あ、あの――」
「主人! おい、客だぞ!」
 自分の顔を触れる謎の行動に恐怖心を覚えた少年が真意を確かめようとしたその瞬間、少年の声を聞かんとばかりに男がスクッと立ち上がると、そのまま主人に大きな声で呼びかけながら天幕の中へと入っていった。
 話しが纏まったらしく、男と鍵を持った主人が揃って笑顔を浮かべて出てきた。主人は少年の前に腰を屈め、手にした鍵を差し込んだ。両手足を拘束していた錠がジャラリと鈍い金属音を鳴らして取り払われた。少年はこの時、どうやらこの男に買われた事を理解した。どれ程の額が支払われたのかは分からないが、少年の前では常に見下すような眼差しを向けていた主人の顔がニコニコと満面の笑みを浮かべているのだから、それなりの額が払われたのだろう。
「では帰ろう。我が家に」
 頭を下げる元主人の礼を一瞥してから、店を立ち去る男はただ一言だけそう言うとスタスタと歩き始めた。その背を人ごみの中で見失わぬよう、少年も男を追いかけた。市場の終わりが見えてくる頃まで会話もなく歩きながら少年なりに考えてみたが、自分を買い上げたこの男の真意の見当がつかなかった。単に奴隷を買うだけであれば最初の、母についての質問は必要だったのだろうか。一度話し掛けたら彼への質問が止まらなくなる気がして、結局話し掛けられないまま遂に市場の外へと出た。

 それから更に少し歩いた所にある森の中へと進んだ男は、時々後ろを振返っては少年が付いてきているのを確認しながらも黙って歩みを進めた。少年には行く当てが無かったから付いてきているものの、こんな連れ帰り方で折角買い上げた奴隷に逃げられるとは思わないのだろうか。つくづく不思議な男である。
 すると木々の間から大きな岩肌が見えてきたと同時に、水の流れる音も聞こえてきた。音のする方へと歩みを進めると、緩く流れ落ちる滝がそこにあった。少年が初めて見る滝の様に思わず立ち止まり、ホウ、と感嘆の息を漏らすと男の呼び声が滝の音に混ざって聞こえてきた。
「おーい、滝ならこれから死ぬほど見られる。早く来い」
 男の声にハッとし、振り返ると彼は滝からほんの少し離れた所に建つ小さな木造の家の前に立っていた。どうやらあれが家らしい。のたのたと、決して速くはない足で男の元に駆け寄ると家の扉が開かれ、中に入るよう促された。
 入ってすぐ目の前に置かれたダイニングテーブルの上には使い終わったままの食器が積み重なっており、洗い場も同様だった。棚は白い埃で覆われ、床には書き損じた紙がまるで落ち葉のように散乱していた。やはり家事をさせるために買われたのだろうか。とはいえ家の中に入った以上、今から逃げ出すには不慣れな森の中を走るという危険が伴ってくる。ならばその機会は今ではない。
「今日からここで生活してもらう。君の寝床はこっちだ」
「あ、あの!」
 男はそう言いながら一角にある扉に向かって向かう。いい加減この男の正体を聞かなければと、少年は市場で会話した時以来、初めて口を開いた。少年の声に振り返り、言葉の続きを待つ男と視線がかち合う。
「あ、あなたは、誰なんですか?」
「君の父親だよ」
 即答だった。もしあの店の主人のように勝手な発言を許さないタイプだったらどうしようと言う懸念を一蹴するかのような、その想定外の即答に言葉が出てこなかった。
今この男は何と言った。父親と言ったのか。
「母親から聞いた事は? ああそれとも、君は居ない父親に興味無いタイプだったかな?」
「え、いや、えっと……」
 昔、母に実父について聞いた事はある。所々に紫が入った空色の髪に金色の大きな目をしている事、あまり人前には姿を見せず、少年を身籠った頃には消息不明になったと聞かされていた。この男は確かに母から聞いていた通りの外見をしている。それに母の名前を知っていた。という事はつまり、この男の言っている事は真実なのか。
「まあ君が生まれてから一度も会っていないんだ、無理もない。だが――」
 ボサボサ髪に指を絡ませながら少年の動揺している様を肯定した男は、身を屈めてからズイッと少年の眼前に顔を寄せた。金色の目に自分の姿が映って見えそうだ。
「ふむ、目は私と彼女の半々だな。誇りたまえ」
 長く伸びた少年の前髪を片手で捲り、しげしげと観察すると満足したように手を離した。男の顔立ちと自分の顔立ちを比べると、確かに似ている箇所はある気がする。
「 まあそんなに多くは無いがね」
 君は殆ど母親似だ、と付け加えながら立ち上がると、家の中の案内を始めた。
――君の寝床は此処だ、あとで好きに掃除したまえ。掃除道具は――ああ、そうだこの部屋。ここが物置。日用品はここに入れておいれくれ。私は殆ど使わないが。
――私の書斎兼寝室が此処。入る時はノックしてくれよ?まあ殆ど居ないがね。そしてこの階段を下りると……そちらが食糧庫。大した備蓄は無いがな。そして此処が私の研究室だ。
 あちこちの扉を開けては閉めてを繰り返し、矢継ぎ早な説明を聞きながら地下室へと案内された。男が木の扉をギイッと開けると、恐らくこの家で一番広いスペースと思われる部屋がそこにあった。薄暗いその部屋は壁の一面を本がぎっしりと並び、
棚には何が入っているかも分からない薬瓶が陳列され、テーブルには何かの模型や紙の束が雑然と置かれていた。
 石造りの床には所々に何かの染みがこびりついており、部屋の薄暗さも相成ってその得体の知れなさに少年は背筋がヒヤリとするような薄ら寒い違和感を覚えた。
「あの、研究って何を?」
「医学薬学に化学植物学、色々行っているがこの近年は専ら生物学だな。まあ追々教えてやる」
 男は指折り数えてこれまでに手を出してきたカテゴリを挙げたが、それらが何を示しているのか少年には想像もつかなかいが、男の言う通り『色々』と手を出してきたのだろう。
「さて。お前には此処の事を含めて手伝って貰わねばならないんだが、読み書きは?」
 少年の方に向き合った男の質問に首を振った。母と暮らしていた頃は本を買う余裕なんて無かったし、そもそも本を売っている店自体が居住区に無かった。母が識字者であれば教わる事も出来ただろうが、それが無かったという事は恐らく母も読み書きが出来なかったのだろう。
 その事を告げると男はそれを予測していたらしく驚いた様子も見せず、部屋の片隅に置かれていた模型を床に下ろしすとそれが置かれていた小さな机に薄らと積もった埃を手で払った。
「今日からこれはお前の勉強机だ。家事を終えたらここで勉強するといい」
 まともに読み書きも出来ないようでは話しにならないと言い加えながら、男は本棚から何冊かの書籍を取り出しすと机の上に放り投げ、自分の使っていない筆記用具をその上に置いた。
「ここに書かれている内容を理解出来るようになれ。分からなければ私に聞きなさい」
 示された本の表紙をパラパラと捲ってみるが、所々に挿絵が入っているものの肝心の本文に何が書いてあるかさっぱり分からなかった。本当に理解出来るようになるのだろうかと心中が不安で一杯になる。だがもし、理解出来なかったらまた市場に逆戻りになる可能性もある。それだけは避けなければならない。
「安心しろ。文字くらいは教えてやる」
 不安そうな表情を察したらしい男の一言で不安がほんの少し和らいだ気がした。

 少年の父は魔術を生業としていた。この家で日々研究に明け暮れ、その研究論文で生計を立てているらしい。だが最近は機械技術の発展が進み、魔術学そのものの立場が蔑ろにされる事が多くなったと言う。そんな文句を交えながら父が教えてくれた事である。
 その時の事を思い返しながら、少年は両手の甲に刻まれている円陣を見つめた。仕組みの理解はこれからだが、曰くこれを同じ陣の上に重ねると術が発動し、そこから壁が生み出される。実際に家の裏にある崖で試すと本当に岩壁が生み出された。いざという時に使えるかもしれないから、と父が刻んだのである。物心付いた頃から父親と言う存在の無かった少年にとって、初めて父親から貰ったそれが少年にはとても大切な物に思えた。

「――ここに天秤がある」
 仕事中の父はいつも唐突に講義を始める。コトリと軽い金属の音を立てながら少年の目の前に置かれた天秤が左右の皿を上下に揺らしていた。やがて水平を保ち、動かなくなった天秤を見ながら講義を続ける。
「ヒトも頭の中にこれがある。ヒトと言うのは常日頃より二者択一を強いられて生きているからね」
「僕の中にも?」
 皿を指で突きながら尋ねると父はそうだ、と答えた。
「私やお前、お前の母親の中にだってある。ふむ、この話においては良い例だな」
 目の前で置き去りにされた事を良い例と言われても複雑な心境にしかならないが、父がそれを気にするような人柄でない事は理解しているので黙るしか出来なかった。
 ――見て分かるように天秤とはより重い方に傾く。人は決断を迫られた時より重要である方を選び、選ばなかった方の選択肢は永久的に損失する。たった一度きり、やり直しなど有り得ないからな。だから人は決断を迫られた時に戸惑い迷い焦るのだ。今日の夕食は肉と魚どちらにしよう、などの他愛もない話なら別だがね。
 さて、お前の母親が良い例と言ったのは彼女の決断が定型的で典型的だからだ。一般的に母親の愛情と言うのは我が身を省みず子供を守るために突き動かされる感情と言える。だが彼女はお前に背を向けて走り去った。何故か分かるか?
「母さんの天秤が、僕より自分を選んだから……?」
 ――その通り。彼女の中にある天秤は保身を選んだ。最初はきっと二人で生き延びるために思考を巡らせただろうが秤に掛けた時点で両方を選ぶという事は不可能だ。どちらも選んでみせるなどと言った決意の実現は所詮、選ばれし勇者の冒険譚でしか起こりえない。例えどちらも重要であったとしてもどれだけ目を凝らして水平に見えたとしても、実際は49.9と50.1という不平等だ。つまり彼女はその0.1と言う極々僅かな数値を自らに割り振った、という訳だ。
 父の言う事は理解出来る。だがそれを納得出来る程の強さを少年はまだ持っていなかった。その釈然としきれない表情を見て察したのか父は言葉を続けた。
「いつかお前も同じ時が来るだろうな。生きるとはそういうものだ」
 今は分からないだろうが、言葉尻に添えて講義は終わった。父の言ういつかとは本当に来るのだろうか。新たに生まれた疑念を頭の片隅に追いやり、少年は再び読みかけの本に意識を向けた。



「ただいまー」
 勝手口から入ってきた少年は、よく熟れた木の実が沢山入った籠をテーブルに置く。少年がこの家に来てから二度目の秋が森に訪れ、木の実は収穫の時期を迎えていた。籠の中から数個の木の実を選んで台所に立つと、慣れた手つきで調理を始める。
 父は最近、地下に籠る時間が多くなり食事の時間になっても上がって来ない事が殆どだった。
簡単にではあるが、少年も父の研究の手伝いが出来る程に知識を深めていたが今携わっている研究はかなり重大らしく、それがいよいよ大詰めとなってからは少年すら立ち入りを禁止されていた。お陰で最近は本を読んでいても分からない所が聞けずじまいで、その箇所を記したメモだけが増えていった。
 研究室の扉の前に食事を置くが、朝になって様子を見ても手つかずで冷め切った料理だけがそこにあるだけだった。物音や何か呟くような声が聞こえるから死んではいないと思うが、普段よりも食事量が減っている事は間違いないのだから食事は少しでも食べやすい、スープにしようというのは息子なりの気遣いである。
 鍋の中でスープがコトコトと音を鳴らし始めた頃、階下から慌ただしい足音が聞こえてきたので顔を階段に向けると父が殆ど飛び乗るような勢いで上がってきた。久々に見た父の顔はひどく興奮している様子で、寝ていないのか血走った目の下にはまるで病人のようにクッキリとした隈があった。その酷い様相に思わずギョッとすると、息子の存在に気付いた父は興奮のままに駆け寄ってきた。
「やったぞ! 漸く成功したぞ!!」
「えっと、何が成功したの?」
 息子の手を取りながらはしゃぐ父に圧倒されながら尋ねた。この喜びようには圧倒されるが、数週間も籠りきって何をしていたのかは気になっていた。
「合成術については話した事があるな? それの理論が遂に完成したんだ!」
 父の研究は異なる生物を合成して一つの生命体にする、合成獣についてだったようだ。その起源などの概要は確かに教えて貰った事があったが、まさかそれを実現させたというのか。呆気に取られながらブンブンと揺らされる両腕がそろそろ痛くなってきた頃、ようやく父は少年の手を離した。
「さて、お前にも手伝ってもらうぞ。今夜だ」
「え、今夜?」
「ああ、最後の微調整が終わってないんだ。それに実験に使う物も足りない」
 今すぐではないのかと思わず聞き返したものの、父は答えるが早いがすぐに外套を纏って出ていってしまった。木製の扉がバタン閉まると、家の中はまるで嵐が過ぎ去ったかのような静寂に包まれた。
 その夜、少年は大きな荷物を抱えて帰ってきた父と久々に夕食を取った。孤食には慣れているが、やはり誰か一緒だと気持ちが違う。昼に作ったスープは煮込み過ぎて出来た焦げの苦みが少し出てしまったが父は飲んでくれた。
「準備が出来たら声を掛ける。お前はそれまで部屋で休んでいなさい」
 夕食を終えた父は席を立ち、少年に告げるとすぐに地下へと降りて行った。ウン、と頷く少年の声は生返事だった。そこまで激しい労働をしたわけでもない筈だが強い睡魔が少年を襲っていた。片付けもそこそこに、少年は父の指示通りに自室へと戻った。眠くて仕方がなく、目の奥がジンジンとしてくる。ベッドに横たわり、ほんの少し微睡んだ後に少年は深い眠りに落ちた。

 遠くから聞こえてくる物音で目が覚めた時、ぼんやりと開けていく少年の視界には石作りの天井が広がっていた。それは見覚えのある、地下の研究室の天井だった。それに気が付くと同時に、自分の身体に起きている異変に気付いた。
 冷たく固い手術台に寝かされている四肢は動かないようにガッチリとベルトで固定され、口には金属製の棒が猿轡のように噛まされていた。何故自分がこんな状況下にあるのかが分からず、この異常な事態に少年の頭の中はパニックになった。誰か、助けて、そう叫びたくても噛まされた猿轡がそれを阻み、くぐもった声しか出てこなかった。
「ああ、起きたのか」
 その部屋の奥から父が出てきた。目の前で息子が拘束されているというのに何故こんなにも平然としているのか。外してほしいと目で訴え、言葉にならない声で助けを求めるが父はさして気にも留めず手術台のすぐ横にある器具台に道具を広げ、カチャカチャと小さく金属の音を立てながら並べていた。息子が助けを求めていると言うのに何をしているんだろう。これではまるでこれから手術を始める医者と患者ではないか。
「もう少し寝ていても良かったんだが睡眠薬の量を控え目にしすぎたか」
 睡眠薬、父の口から出た言葉を頭の中で反芻する。食事の後に襲ってきた強い睡魔はそれの作用だったのか。成程と納得する一方で何故そんな薬を盛られていなければならなかったのか、また何故という言葉で頭の中が埋まっていく。
「抵抗されると面倒だからな。それに麻酔は影響が出るかもしれないから使えなかったんだ」
 息子の困惑した表情に漸く気付いた父が話し始める。だがその言葉から何を察したら良いのか、混乱している少年の頭では判断出来なかった。ただ一つ、今から父がしようとしている事が凶行でしかないと言う事だ。漸くこちらを向いた父の顔はとても晴れやかで期待に満ちた子供のような笑みを浮かべ、少年に宣言した。
「さあ、合成獣実験の開始だ」



「あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛あ!!」
 父の高らかな宣言と共に少年に与えられたのは激痛などと言う言葉では収まらない程の痛みだった。麻酔も無く平常通りの意識下でいきなり腹部にメスを入れられ開腹させられているのだ。その痛みと恐怖に少年はただ声にならない悲鳴をあげるしかなかった。
きっと父が施した拘束が無ければ台から転げ落ちて這って逃げ出そうとしただろうが、それは敵わない事をギチッと軋むベルトの音が示している。この猿轡も舌を噛まないようにと施されたのだろうが、今の少年にそれを理解するだけの余裕など到底無かった。
 そして当の本人は眼下であがる悲鳴などお構いなしにテキパキと慣れた様子でメスや鉗子などの手術道具を使い分けてテキパキと術式を進めていた。そうやって暫く少年の体内をあちこち観察してから手を止め、手にしていた道具たちを器具台に戻した。
雑に置かれカシャンと音を立てた道具たちの代わりに、父が手に取ったのは小さな小瓶だった。
「見えるか? これが定着すればこの研究は成功するんだ。スゴイだろう?」
 少年の視界が涙で霞む中、父が手にした小瓶を自慢げに掲げているのが見えた。その小瓶の中には見た事のない、まるでミミズのようにウネウネと蠢く白い何かが見えた。激しい痛みに苛まれ痛覚さえも鈍り、ボウッとしてきた少年の頭には父の言う定着の意味がすぐには分からなかった。
 少年はただ目線だけを寄越し何の反応も示さないでいたが、それについて特に気にも留めなかった父は小瓶の蓋を開け、ゆっくりと少年の腹の上にまで持っていくと、ゆっくりと逆さにしてその白いモノを少年の腹の中に落とした。
「――!!」
 開けられた腹の臓器に到達した瞬間、少年は新たな激痛みに襲われた。生き物が、先程見せつけられたあの生き物が腹の中で蠢き這いずり回っているのだ。臓器を一つ一つ調べるように体内を巡り、時には吸い付くような動きをしている。しかもソレはまるでスポンジのように少年の体内に溜まっている血液を吸い、体積を大きくしているのが内臓への圧迫感で分かった。気が触れそうなその痛みが頂点に達した時、少年の目の前は真っ暗になった。

 次に目を覚ました時、少年は自室のベッドに横たわっていた。全身が痛いし、倦怠感も吐き気も酷かった。それに身体の内側がゴロゴロとして違和感もあった。とても恐ろしい夢を見た気がする。その夢の中に出てきた父親はまるで悪魔かそれに近い狂気に満ちた存在だった。いくら研究熱心とはいえ、父がそんな事する筈がない。
 あれは悪い夢だったのだ。そう思いベッドから降りようと右手をつくと、痛みで腕に力が入らずガクリとその場に崩れた。痛みの原因が分からず、右腕を見てみるとそこにはクッキリと何かで締め付けられたような跡が残っていた。
「え?」
 その腕を見た瞬間に視界がグワングワンと揺れた。脳裏に記憶がまざまざと蘇ってくる。地下室の光景、痛み、恐怖、そして父の姿―― 記憶が鮮明になるにつれ、細い身体が震えて呼吸が上がっていく。
「起きたのか。三日ぶりだな」
 音も無く入ってきた父の姿を目視した瞬間、思わずヒッと声を上げてしまった。父が少年のいるベッドへと歩み寄る動作さえ恐ろしく、記憶の中のそれも相成ってかその場から動けずにガタガタと震えるしか出来なかった。
「体調はどうだ? 特に腹部の感覚は感じた事を全て言え。あと他に痛みや違和感などがあったらそれもな」
 どうやら三日間眠り続けていたらしいが、そんな事はどうでもいいと言わんばかりに父はベッドサイドに腰掛け、矢継ぎ早に質問をし始めた。違和感があるとしたら父の態度そのものだ、とは言えずモゴモゴと自分が目覚めた時に感じた事を全て答えた。それをメモしながら二、三個程の質疑応答を交えながら手に持ったノートにペンを走らせると父はまた部屋を出て行った。

「っあ、ぐう、うっ……」
 少年が目覚めてから二日後の事である。少年は異常な腹痛と吐気に襲われていた。身体は震え、脂汗が噴き出たかと思えば冷や汗を流し、吐き出そうにも出てくるのは胃液ばかりで何の解決にもならなかった。蹲って指先が白む程に強くシーツを握りしめて堪えていると、腹の中で何かが蠢くような感覚に気付く。何かが自分の中に居る、そう察した時にあの日の記憶が蘇った。そうだ、あの時父が自分の腹に何かをしていた。何か、白いモノを腹に落としていた。
「ぐう、あ゛っ……!!!!!」
 そのシーンを思い出そうとした瞬間、一際強い痛みが襲いかかってきた。身体がミシミシと軋み、肉の切れる音が耳に届く。段々と背の方へと移っていく痛みは少年の身体から、まるで雛鳥が殻を突き破って出るように何かが、あの時に見た何かが波打ているのだ。
「っ、は――!!」
 激痛の波がスッと消えると同時に、そのまま俯せの状態で寝台に崩れ落ちた。肩で息をしていると背中の方から布を擦るような音が聞こえる。ズルリと鳴るその音の正体を確かめたくも振り返る事が出来ず、そのまま身体を強張らせていると不意に布擦れの音が止んだ。一体何だったのかと疑問に思ったその時、ヒタリと生暖かい何かが少年の頬に触れた。
「何の騒ぎ、だ……」
 少年の絶叫が部屋中に響き渡ると父がバンッと大きな音を立てて扉を開けながら入ってきた。だが少年の姿を見とめた瞬間、金色の目を見開き凝視していた。
「お、お父さん、たすけ……」
「――素晴らしい!!!!!」
 ガクガクと震えながら助けを求める少年と真逆に、父は破顔しながら少年に駆け寄った。正確には少年の後ろにいるモノに向かってだ。少年の後ろにいるモノ、それは白く長い体を持った奇妙な軟体生物だった。目鼻や耳、口も無いそれは少年の背に根付いてるように生えており、今は少年の首元に緩く巻き付いていた。先程まで少年を襲っていた痛みはコレが少年の背を、まさに孵化する雛鳥のように突き破ろうとした痛みだったのだ。
 グッタリとしている息子とは裏腹に興奮冷めやらぬ様子の父は、横たわる少年など意にも介さずにベッドに膝乗りしてその生き物にソッと触れながらあちこちを見回していた。ブツブツと早口で何かを呟いているが、少年にはそれが何を意味しているのか分からなかったし考える余裕も無く、そのまま意識を手放した。
 次に目が覚めた時、父から掛けられた第一声は体調を気遣うというよりは息子に宿った生物の様子を気遣う物だった。やはりこの生物はあの時、父が少年の腹に落とした物が成長した姿だと言う。父曰く、この生物は他の生物に寄生して活動する魔力生命体でマウスでの成功例はあったが人体への定着による共生は初の症例らしく、それを意気揚々と語るのを聞いていたが寄生された身としてはそんな大それた物には思えず、ただの一種の寄生虫でしかなかった。

「――ねえ、布くんって呼んでもいい?」
 父が研究室へと引っ込み、部屋に二人きりとなったある日、少年はこの生物に名前を付ける事にした。それまでは二人称で呼んでいたがそれも不便な事なのである。命名の理由は本物の布よりは質量があるが、ヒラヒラと揺らめくその姿が以前に読んだ物語の中に出てきた布のお化けに似ていたからだ。
名を告げると嫌がる素振りを見せなかった。と言うよりも分かっていないだけかもしれないが少年はこれを『布くん』と呼ぶ事にした。
 少年の身体に布くんが宿ってから半年ほど経ったある日の事。裏の森から梟の鳴き声が聞こえてくる真夜中、誰かの話し声で目が覚めた。ぼんやりと目を開けると、自室の扉の下から細い明かりが差し込んでいた。父が上がってきたのだろうか。どうやら話し声は父の物だった。通話機と大量のレポート紙をテーブルに置き、誰かに連絡を入れているらしい。わざわざこんな夜更けに話す内容とは一体何なのか、それが妙に気になった。ベッドからスルリと降りた少年は音を立てないようにソッと扉を細く開け、父の様子を伺った。

――私だ。――ああ、そうだ。遂にやったぞ。アレが腹に定着した!技術省の奴ら、これを見せたら驚くぞ。ハハハ。またきっとふてぶてしい態度で技術料を提示してくるだろうさ。――確かにな、奴らはすぐ調子に乗る。苗床に代えがきくとしても肝心の生体を子供の玩具みたいに潰されては困る。――ん? まあそうだが、それは別の話だ。肉親だからどうした。そもそも躊躇いがあるなら苗床に使ったりはしない。あと明後日の論述会には連れていけるぞ。何、実験材料として連れて行くんだ。マウスを連れてくのと大差無いさ。

 その後二、三言ばかりで話は終わったらしいが、内容は頭に入ってこなかった。父の口から出てきた単語が呑み込めず、それらが頭の中でグルグルと駆け回っていた。腹に定着、それは恐らく少年の腹の中にいるあの生き物の事だ。だが、その後に続いた言葉たちどういう事だ。父にとって少年は――
 動揺し、そこに立ち尽くしていると背中の白い生き物は体の先端を木製の扉に押し付け、ギイッと音を立てながら大きく開けた。その音に気付いた父が振り返ると白い生物を背にし、顔面を蒼白にした少年がそこに立っていた。
「何だ起きていたのか。いや、聞いていたのか?」
「あ、あの、今の」
 ガクガクと震えて舌が上手く回らない。嘘だと信じたかったし冗談だと言ってほしいと言葉にしたかったが、少年の口からは言葉として出てこなかった。少年が何を言わんとしている事を父は察しているようだが黙っていた。
「僕はっ、――」
 ただの実験材料なのか、漸く口から出た言葉は少年の心にまるで自分自身を殴りつけるような痛みを与えた。だが父の目は酷く冷たく、やれやれと言わんばかりにフーッと深い溜息を吐くとゆっくりと口を開いた。
「それがどうした。何のためにお前を買ったと思ってる」
 当たり前だろうと言わんばかりの表情で淡々と答える父が理解出来なかった。父の言葉が頭にガンガンと鳴り響く。椅子に腰かけ、少年に背を向けながら父は続けた。
「お前に三つ伝えておく。一つ、私とお前が親子なのは間違いない。二つ、息子であるお前と研究だったら私は研究を取る。三つ、明後日の論述会でお前の身柄は軍の技術省が引き取る事になるだろう。以上だ」
 片手でレポートの山をガサガサと漁っては目当ての用紙を探し、もう片方の手の指を折りながら事もなげに伝えられた言葉は少年の恐怖心を煽るだけだった。技術省がどんな所なのかは分からない。だが、良い場所ではない事は分かった。そんな所に連れて行かれたとして、どんな目に合わされると言うのか。そもそも、自分は生きて帰れるのか。またあの時のように暗い石牢に放り込まれ、ただ只管に耐えるだけの日々に戻ると言うのか。
(嫌だ、そんなの嫌だ、僕はもう……!)
 悲観と焦燥と恐怖に呼吸が乱れ、心臓の鼓動がドクドクと速まっていくのが分かる。グラグラと揺れる視界の端に通話機が目に入った。
「――っ!!」
 木の床を踏みしめた所からの記憶は無かった。少年が気付いた時、父親は椅子から崩れ落ちて倒れ伏していたし、その頭からは大量の血が流れていてピクリとも動かなかった。肩で息をしている少年の両手には何かに打ち付けられたようにひしゃげた通話機が収まっている。底面から角の部分にかけて、所々に赤黒い染みが付いていた。
 頭に上った血の気がサーッと引いていくのと同時に、あっと小さい声を上げた少年はペタリとその場に座り込んだ。ドクドクと音を立てている心臓の鼓動はまだ速いままだがそのテンポは段々と緩まっていく。
 呼吸が落ち着くのを待ってから頭の中で状況の理解を進めた。父は少年をあくまで実験材料として見ていた事、その成功例である自分を他所へ売り飛ばそうとした事、そしてその父を少年が殺した事。一度落ち着いてしまった後に込み上げてる感情は無かった。怒りも悲しみもしないその空虚な心のまま、少年は父の手に握られていた数枚の紙を引き抜いた。
 死後硬直がまだ始まっていないらしく容易に抜けたその紙には父の字で書かれたある日の観察レポートが記されていた。その日付はつい先日、少年が体調不良を起こして高熱を出した日だった。
 その日の父は珍しく研究室から出てきて看病してくれたが、それはただの観察でしかなく折角定着した苗床に死なれては困るからと言う物に過ぎなかった。看病してくれた時の手が優しくて嬉しくて熱に浮かされながら涙したが、その時でさえ父の関心は自分ではなくあくまでもこの白い生物だった。
 テーブルや床に散らばっているそれらは過去の研究論文や父の観察レポートだった。これまでに確認された体の構成や行動パターン、知性の有無など、全て少年に寄生しているこの生き物についてだ。読み進めていく内に父が本当に息子の事に興味無かったのだという事実がどんどんと心に積み重なっていく。しかし少年には悲しみよりも、これが事実なのだから仕方ないという諦観とも達観とも言える感情の方が強くなって一方だった。
 床に落ちていたレポートを拾い上げると一部が父の頭部から流れ出た血で汚れ、読めなくなっていた。それは丁度、この生物の名前について記している箇所であった。勝手に呼んでいた名前はあるが、ヒトやイヌのように正しい種族名は必要だろう。
「君は僕でもあるんだから――じゃあ君もキュビエね。キュビエの布くん」
 まるでペットに名付けているかのような明るさで少年が名前を決めると、キュビエという種族名を与えられたそれは頷くように先端を上下させた。
 すると、キュビエは動かなくなった父の身体に興味を示したのか、彼の身体を突き始めた。手のような白い体が父の、赤い血を纏っていく。レポートの中には他の生物の体液なども吸収し、自らの栄養価にすると記されていた。餌にするかどうか迷っているのだろうか。
「食べてもいいよ」
 無意識の内に口から是認の言葉が漏れていた。その言葉を合図にキュビエは父の身体に近寄ると後頭部の傷口に体の先端をグリグリと押し込み始め、ドクリドクリと体を波立たせながら体液を吸い始めた。キュビエが脈打つ度、体の痛みが和らいでいくのが分かる。これも共生による影響なのだろうか。
「美味しい? あのね、それは僕と半分同じ、人でなしの血だよ」
 酷く優しい声色で語り掛ける少年に答える者は誰も居らず、代わりに聞こえてくるのは液体を吸い上げる水音だけだった。


・コブと布くんが合体するまでのお話し。長くなりすぎてびっくりしてる。
・この世界における魔術は錬金術と同一。
・魔術学と機械工学(1900年初期くらいの技術力)が両立している。この頃は3:7程度の比重だったけど、コブが大人になる頃には技術発展により2:8くらいの比重になってる。
・普段は蔑ろにされる事が多い魔術学だが、その研究内容によっては軍事にも転用される。