あんころもち

【 届かない理想 】


 ダンジョンから帰還してから数日、昏睡状態であったとDr.ギドクから聞かされ、内臓代わりの布くんを失い空になった腹で入院生活を送ること早数週間が経っていた。
そこから更に数日後、腹の中で何かが動く気配を感じたのを予兆として、殆ど死んでいる僕本来の内臓に残っていた神経を元に布くんが復活したのが今から約1週間前の話である。
布くんが戻ってからの回復は早かった。機能する内臓の数が違うのだから当たり前なのかもしれないが、ダンジョンへ向かう事は無理でも簡単な散歩をするくらいは出来るようになった。

現在時刻は時計が無いので分からないが夜も更け、殆どの者が寝静まった頃だ。血気盛んな者が集うこのエンデバー内も静まり返っている。
そんな中を僕はゆっくりとした足取りで歩いていた。復帰するためにも寝てばかりはいけないとこの数日始めた軽い運動だ。
規則正しい生活こそ一番の薬である事は分かっているが、こんな時間でもないと迂闊に出歩くなんて出来ない。病み上がりと言う事を配慮してくれない者たちが一定数居るこのタロンでは特に。
いっそ復帰しない方が良いのかもしれないが仮病なんて通じないだろう。復帰後に想定されるだろう展開を思い浮かべ、重い溜息を吐くと硬い何かにぶつかった。
「痛っ。何だ、これ……」
 ぶつかった所為で少し揺れている板状のそれを掛け布ごと押さえてグラつきを止める。動きが治まった所で見上げると、それは板と言うよりは鏡であった。
こんな鏡がこの船の中にあっただろうかと首を傾げたが、すぐに思い当たる節に辿り着いた。 昨日か一昨日、リーダーのガラがメンバーの誰かに説明しているのを耳にしていたのである。
「反転鏡、ねえ」
 ガラ曰く、平行世界の自分を見ることのできるらしい。自分では無い自分を目の前にして、はしゃぐ者もいれば戸惑う者もいるだろう。果たして僕自身はどうだろうか。
 正直なところ眉唾ではあったが、顎に手を添えてウーンと小さく唸りながら、自分では無い自分について考えてみる。
女性として生きる自分、荒くれ者の自分、色々と考えてみたがどうもしっくり来なかった。
「百聞は一見に如かず、って事なのかな」
 誰に語りかけるでもなくゆっくりと掛け布を取り外す。すぐに見るのは勇気が無く、目を閉じてその鏡の前に立った。スッと小さく息を吸い、一拍置いて吐き出す。
ヨシ、と踏ん切りをつけて目を開けるとそこには僕自身が居た。



「――っ」
 コバルトグリーンの髪の毛の先に山吹色。それとよく似た色の両目を晒し、穏やかに微笑むその男の顔は紛れもなく僕であり、僕ではなかった。
頭が真っ白になり、言葉が出なかった。何か言いたげに声が口から出ようとしているのに、喉元でつかえて出せないでいた。
一点だけ理解出来た点がある。その鏡に映った世界に生きる僕は、何者にも縛られない世界を生きていると言う事だった。
 そっと鏡面に触れ、まじまじとその姿を見つめた。その姿は紛れもなく、僕がどれだけ望んでも手を伸ばしても手にする事が出来ない理想を体現していた。
手袋もしていない彼の手は傷一つ無い、年相応に角ばった手をしていた。僕自身の手は、少年だった頃には既にボロボロだと言うのに。
だが、それが向こうの世界では当たり前な事も理解できた。
 僕の出自である『キュビエの民』――それは、遠い昔より信ずる神が異なるが故に迫害されてきたが、宗教観の違いだけが理由ではなかった。
例えキュビエが改宗したとしても、決して扱いが変わる訳ではないのだ。
キュビエの民には大きな特徴が三つある。一つは民の大多数が褐色肌である事。二つ目に魔術適正が高い事。
この二つは民でなくとも該当する者たちがいるが、最後の一つが決定的な物なのである。



強膜部分が黒く染まっている事、それが三つ目にして決定的な民である証拠だ。

「……」
 きっと酷い顔をしているであろう今、この場に誰も居なくて良かった。
心の中にモヤモヤとした何かが込み上げ、呼吸が早まり、膝は心なしか震えている。いや、唇も手も、全身が震えているようであった。
それに気付き、右の掌を見つめると不意に掛け布が下ろされ、鏡の僕が隠された。掌から目を離すと、いつの間にか布くんが外に出ていた。どうやら彼が布を下ろしたらしい。
「布くん――向こうには、君も居るのかな?」
 相棒に問い掛けてみるも理解はしていないようだ。彼の知能を考えれば当然の反応だ。きっと鏡面を隠したのも、ただのイタズラか気紛れ心による物だ。
だが、気儘にうねるその姿を見て、安堵した。
「――帰ろうか」
 再びそれを見る気にはなれなかった。再び目にしたらきっと、あの鏡の前に立っていられなくなりそうな気がした。
来た時と同じように布を掛けられたそれに背を向け、僕はその場を後にした。

・コブが目隠れにしている理由。