あんころもち

【 シレネの綻び 】



 ダンジョンを攻略した明くる日の晩、コブは一人、酒場を訪れていた。カウンターに腰掛け、酒場の喧騒をBGMに酒の入ったグラスをチビリチビリと飲みながら、もう片方の手でキラキラと光る小さな宝石を眺めていた。
 先のダンジョンでボスから入手した『輪廻のクラーウィス』――これを使うと一度だけ元の世界に戻れるらしい。本来ならば戻った所で身分詐称の容疑者として追われる身なのだから戻らない方が良いに決まっている。だが、彼が気がかりなのは残してきた恋人の事だ。
 あの時彼女は仕事で不在だったが、逮捕に乗り込んできた奴らの家宅捜索で踏み荒らされているだろう家を見たら、コブが消息不明と聞いたらきっと驚愕し不安になっている事だろう。彼女とは将来添い遂げるつもりでいるからこそ、何も言わずに姿を消す事は出来ない。
だが、一度しか使えないこれを使って戻った所で自分が捕まるのは目に見えている。それに通報者が分からなければ始末する事も叶わない。一番の理想は彼女がこちらに付いてきてくれる事だが、それには数が足りない。
 視線を落としてカウンターテーブルの木目を見つめても解決案は浮かんでこない。手詰まりの状態に思わずウーンと唸り声が上がってしまう。どうしたものかと頭を悩ませながら顔を上げると、カウンター越しに緋の両目がジッとコブを見つめていた。
「ジーッ」
 擬音語を声に出しながらこちらの様子を伺っていたのは、この店の女将の息子だった。入店した際に大きな声で挨拶していたのですぐに分かった。いつから見ていたのかは分からないが、熱い視線に身が引いてしまう。コブが自分に気付くと、警戒と言うよりは興味津々の視線を向けていた少年は口を開いた。
「ねえねえオジサンさ、ウチ来た時白いの連れてたでしょ?アレの事さ、話すのヤダ?あんね、母ちゃんがさ、『アンタが興味ある事でも相手は話したくない事かもしれないんだから、やたらめったらに聞くんじゃないよ』って言うからね、話すのヤじゃなかったら色々聞いてもいい?」
 こちらの耳に届くようカウンターから身を乗り出し、本人はそのつもりだったのかもしれないが内緒話と呼ぶには大きいその声で一息に話し掛けられた。最初は何事かと思っていたが、どうやら少年が興味を示していたのは布くんについてだったらしい。
「あ、ああ。それなら別に構わないよ」
「マジで!?あのさあのさ、さっきの白いの何て言うの?あれ生き物?機械?何食べて動いてんの?オジサンいつからあの白いの連れてるの?友だち?オジサン旅人?オジサンと一緒にこっち来たの?それともオジサンが生んだの?あとね、えっとね」
 コブの返答を聞き、少年はパッと明るい笑顔を見せたかと思えば速足でカウンターから飛出すと太く束ねたドレッドヘアをパタパタと揺らし、空いていたコブの隣の椅子に飛び乗りながら矢継ぎ早に質問してきた。
「ちょ、ちょっとストップ!ストップ!」
 その質問量と声量に圧倒されて長い前髪で隠れた目がグルグルと回りそうなのを堪え、少年を制止する。すると少年はピタッと質問をやめ、回答を期待する眼差しでコブを見つめた。
「え、えーっと、まずあの白いのは布くんって僕は呼んでる。一応生き物、かな。僕が食事で摂取した栄養の一部を吸収して、蛇や触手みたいに一人で勝手に動いてるよ」
 あまりにも真っ直ぐな眼差しを向けられ、思わずたじろいでしまうが順番に回答していく。とは言え詳細は話さなくて良いだろうと、所々は省略しているが。
「布くんとは多分君よりも若い頃からの付き合いになるかな。ああ、あと君が言う通り僕はコレと一緒に此処へやってきたよ」
 そう答えるとヘー、と感嘆の声が上がる。リアクションの一つ一つが大きすぎるようにも感じるが、大袈裟なのではなく本心なのは表情で分かった。
「え、じゃあさ!オジサンの居た所ってどんな――」
「ゴング!!仕事サボっていっちょ前に絡んでんじゃないよ!!!!」
 少年以上に大きい声が背後から飛んできたかと思うと、少年の頭の上に白いレースを纏った拳骨が落ちてきた。手の主は店の女将にしてこの少年の母親だった。この光景にすっかり見慣れているらしい常連客が、頭を押さえてヌオオと呻く少年にまたやられたかと冷やかしの声を掛けてくる。
「いきなりグーはズルいってば母ちゃん!!」
「先に手伝いサボってズルしてんのはアンタの方でしょ!まだまだ増えるんだからさっさと片付けてきて!」
 先程まで拳骨を作っていた手で息子の頭をさすりながら、渋々店の奥へと戻っていく息子をほらほらと急かしていた。親子のやり取りを前に、完全に置いてきぼりを喰らったコブは少年の背を見送りながら氷の溶け始めているグラスを傾けるしかなかった。
「ああ、お客さん。さっきはうちのが邪魔しちゃってごめんなさいね。その一杯、サービスするから勘弁してやってね」
 息子が食器洗いを再開するのを見届けた女将はカウンターの中に入りながらコブにそう告げると、大きなジョッキ四つに酒を並々と注ぎ再びホールへと戻っていった。それはまるで嵐のようなひと時だった。
 それから数十分程、テーブルを肘掛け代わりに他の客同士の会話を眺めながら酒を呷っていた。相変わらず考えは纏まっていない。二杯目のグラスが空になりかけた頃、ふと人の気配に気付き後ろを振り返ると緋の両目と再び目が合った。先程の少年、ゴングが戻ってきたのだ。
「オジサン、今いい?」
「やあ、手伝いはもういいのかい?」
 最初の会話と同様、本人なりにはヒソヒソ話してるつもりの、だが先程よりは抑えた声で話し掛けてきた。体勢が先程よりも低いのは恐らく母親に見つからないようにしているのだろう。
「まだ終わってないんだけどさ、話聞かせてくれたからさ、オジサンこれあげる」
 体勢をなるべく低くさせたまま、グーッと腕を伸ばしてコブに差し出したのは『輪廻のクラーウィス』だった。想定外のプレゼントに思わず目をパチパチとさせる。
「え、これ…良いのかい?」
「うん!何かさ、これで他のトコに行けるらしいんだけどね、オレの家ココだし母ちゃん置いてどっか行く予定も無いから、オレはこれ無くてもヘーキなんだぁ」
 これを持っているという事はきっと彼もダンジョンに、あのボスと対峙して得た物だろうにこんな容易く見知らぬ男に渡す少年の気前の良さと言うか、思い切りの良さに対して呆気に取られる。
「そうか――ありがとう、ゴングくん」
「え、何でオレの名前知ってるの?オレ名前言った?」
 だが、それが受け取らない理由にはならない。手渡されたそれを掌に収めながら少年に礼を言えば、コブが自分の名前を呼んだ事に目を丸くした。
 わざわざ解説する程の事でもないとは思ったが、疑問符が頭の上にいくつも浮かんでいるような表情をされては答えないわけにもいかない。
「いや、さっきお母さんに呼ばれていただろう?」
「あ、そうだった!!」
「ゴングーーー!!!!!!!!!!」
「うわヤッベ!!えーっと、オジサンじゃあね!!!」
 元気の良すぎる納得の声が母親の耳に届いたらしく、再び雷のような声が轟く。別れの挨拶もそこそこに、少年は母に叱られる前にと脱兎の如く駆けて戻っていった。
 少年が去り、嵐が過ぎ去ったかのようにカウンターは静かだった。女将はテーブル席の常連客たちと会話をしながら注文の料理やジョッキを配膳している。
その様子を眺めながらポケットから財布を取り出すと、二杯分の料金をテーブルに置いた。女将は一杯サービスと言ったが、アイテムの代金代わりと思えば安すぎるくらいだ。
 店内の喧騒に紛れるようにそっと店を出ると、酒の入った身体に心地良い夜風が頬を撫でた。足を進め、人気のない路地裏に入る。見上げた先には屋根たちの間から青白い満月が浮かんでいた。
『輪廻のクラーウィス』を一つ、ポケットから取り出して両の掌で包むように持つと、ゆっくりと目を閉じて戻りたい場所を思い浮かべる。段々とこの世界へ来た時のような、何かに引っ張られるような感覚がしてきた。

 もう一度この世界に戻ってきたら、僕はきっと解放される――
 僕の人生を縛っていた全てから解放される――
 今度こそ、今度こそ自由に生きられる筈だ――



 目を開けた時、コブは小さな室内にいた。木製の執務机に応接用の革張りのソファ、足元は柔らかい絨毯の感触がした。右側には隣室に続く扉と幾つかの写真額、左側の壁には大きな置時計が針の音を鳴らしながら午後六時五分を示し、窓辺に生けられた一輪の紫の花は蕾が開きかけている。
机上のカレンダーを見るに今は四月十六日。あと二、三時間程すればコブの自宅に憲兵が押しかけ、そしてあの世界へと飛ばされた瞬間が訪れる。
 到着したこの部屋はよくよく覚えのある部屋、コブの執務室だった。部下たちが詰めている隣室から物音は聞こえない。確か自分と同様、今日くらいは自分の家で寝ようと言い聞かせて全員を帰らせていた筈だ。
 机に寄り、備え付けられている一番上の引出しをスッと引くと中には一丁の拳銃が収められていた。軍の支給品ではあるが、射撃が得意でないコブは弾を装填する事もせずに引出しに放り込むとすっかり放置していたのだ。
 今は体内にいる布くんを外に出す訳にもいかず、この建物内にいる何人が今夜起こる事を知っているかも分からない。そんな安全と言えない状況下においてはかなり心強い物だ。当時の自分を褒めてやりたくなるのも無理はないだろう。一緒に仕舞われていた六発の弾薬を装填し、部屋の扉へと向かう。
 扉を小さく開け、その隙間から周囲の様子を伺う。ジッと耳を澄まし、近付く足音も人のいる気配も無しと判断すれば早足で廊下に出る。
この時間ならば恐らく彼女は、この廊下の一番奥にある秘書室にいる筈だ。グズグズしている暇など無い。足音を極力立てないように廊下を駆けた。

 窓から入り込むオレンジ色の夕陽を半身に浴びながら少し駆けると、目的地の部屋の前に辿りついた。相変わらず辺りに人の気配は無く、シンと静まりかえっていた。寧ろ不自然なくらいではあるが、都合が良い事には変わりない。
 中の様子を探るべく、膝をついて木製の分厚い扉にソッと耳を当てる。彼女の話す声が聞こえるという事は電話中か来客中か。身を隠せる空間の乏しいこの場では前者である事を願いたいが、男の声が耳に入った。当てが外れた事に心中で舌打ちを一つするが、男の出ていくタイミングを計る為にも体勢は維持したままにする。聞こえてくる彼女の声は敬語ながらも親しげな様子だった。どうやら自身の上司である将校の相手をしているらしい。
 会話が終わるが早いかコブが見つかるが早いかと、焦れる気持ちを落ち着かせながら聞き耳を立てていると二人の様子が少し変化してきている事に気が付く。だが、その変化の意味を察すると心臓が早鐘のように鼓動を打ち始めた。あまりの大きさに、心音で居場所がバレてしまうのではないかとさえ思えてくる。

 これは一体どういう事だ これは、これではまるで――
 確かめなければ 中に入らなければ 彼女に会わねば――

あんなにも慎重にと言い聞かせていた筈だった。だが気が付いた頃には震える手でドアノブを握りしめ、音を立てずにソッと扉を開けていた。




 橙の色の光が差し込む一室に『私』はいた。一度帰宅して着替え、同棲する恋人にメモを残した後でまた戻ってきたのだ。そしてこの部屋は『私』の職場であり、今日の待ち合わせ場所。
「やあ、お待たせ」
 手持無沙汰に壁に掛けられた絵を眺めていると、ノックを一回、返事を待たずに扉を開けて一人の男が入ってきた。ボタンを外し、上着の襟を寛げながら『私』の元に歩み寄ってきた彼は『私』の上司のディード少佐だ。
「いえ、今来た所ですわ」
 待ち人来たりと、簡単な挨拶を交わし今日あった事についての雑談が始まる。他愛のない会話をしていると、いつの間にか彼は『私』を抱き締めるように腰に手を回してきた。彼の合図だ。『私』はそれに応えるように彼の首元に腕を回し、頬にキスをする。すると彼は『私』の背を壁につけると『私』の首筋に唇を落とし始めた。
 何度もしているがまだ少し慣れないくすぐったさに思わず小さく笑い声が漏れる。彼はそれに気を良くしたのか、首筋だけでなくあちこちに唇を落としてきたので『私』は彼の短い髪を指に絡めたり撫で漉いていた。
 彼が『私』にアプローチして来たのは、『私』が彼の下で働き始めて一年経ったくらいの頃。でも彼には妻がいて、その頃には既に今の恋人がいた『私』はそれを躱してきた。
 そんな『私』が彼の想いに応えたのは今から半年程前の事。恋人とは同棲していたものの、仕事ですれ違う日も多かったし『私』自身を持て余していたからだ。所謂『不倫』である事は分かっているが、やめるつもりは無い。彼もいずれは、と言ってくれたし『私』も今の恋人と長く続けるつもりは考えていない。寧ろ近い内に別れるつもりだ。それに、もうすぐ会えなくなるだろうし。
 そんな事を考えていた時、不意に彼の肩越しに、扉の所に此処に居る筈の無い男が見えた気がした。ドキリとして瞬きを一度するがその姿は消えていた。きっと幻でも見たのだろう。
『私』の様子を見てどうかしたかと尋ねられたが、彼の頬に手を添えながら何でもないと答える。目の前にある彼の瞳に『私』の顔が映った。互いに見つめ合い、一拍の静寂が訪れる。どちらからともなく、ゆっくりと顔を近づけていく。
「来い、キュビエ」
聞き覚えのある声が聞こえたと同時に、横から何か白い物が飛び出してきたて彼を吹き飛ばした。



目の前で起きた事が理解出来ない。先程吹き飛ばしたのは彼女の上司のディード少佐で、目の前で腰を抜かしている彼女は僕が探していた恋人だ。
 この部屋に入る前から浅いままの呼吸は落ち着かず、喉はカラカラに乾いている。目はギラつき、全身の血は沸騰しているかのように熱い。しかし頭はその血が届いていないかのように冷え切っていた。そこまで理解出来るのに、目の前で起きた事が理解出来ないでいる。
何か言わなければ、何か言わなければと思う度に言葉が頭の中に積もり続け、それが口から出せずに彼女を見下ろす事しか出来なかった。
「ア、アン――っ!」
 彼女の名を呼ぼうとする掠れた声を乾いた銃声が掻き消し、左腕に痛みが走る。音の方へ眼を向けると先程布くんが張り飛ばした彼が壁を背に起き上がり、手にした銃をこちらに向けていた。気絶でもしてくれていたなら良かったのにと思いながら二発目は撃たせまいと持ってきた銃を向ける。
 すると目の前を白く長い身体が少佐めがけて猛スピードで向かい男の眼前に辿りつくやいなや、握り拳で殴打し始めた。その衝撃で彼の手にしていた銃は床を滑った。
先程自分を吹き飛ばした正体不明の生物に殴られ続ける少佐の呻き声が聞こえるが、それを無視して彼女の前に膝をついて目線を合わせる。小刻みに震え、すっかり顔色を失った彼女のこんな様子を見るのは初めてだ。そんな彼女が僕を見てキュビエ、と口にしたのが聞こえた。
 それでようやく、何故今夜僕の元に憲兵隊が来たのか合点が行った。僕の素性が彼女に知られたらしい。僕はひた隠しにしていた事実が大きすぎてきっと動転してしまったのだ。身分詐称したキュビエを発見したので通報とは、僕の恋人は何て模範的な国民なのだろうか。怯えて震える彼女を落ち着かせるためにゆっくりと、僕が危険な賭けをしてまで此処に来た理由を話し始めた。
  ――なあアンネ。確かに僕はキュビエだ。でもね、さっきまで僕が居た所ではそんな事、一切関係ないんだ。移民かどうかくらいで、キュビエだ何だと言ってくる奴なんて居やしないんだよ!
  ――だから一緒に、僕と一緒に来てくれないか? そしたら僕たちはきっと何も邪魔される事ない。きっと幸せになれるはずだよ!
 ああ、こんな事なら執務室に隠していた婚約指輪も持ってくるべきだったろうか。そんな事を考えながら彼女に手を差し出すと、呆然としていた彼女はハッと我に返ったように瞬きを数度した。
だが、その後に彼女から投げられた言葉はまた僕の理解を超えるものだった。
  ――何言ってるの? 私が、アンタと、キュビエなんかと? 冗談じゃないわ! アンタは捕まっても撃たれて終わり!
でも私は違う!少し恩赦があったとしてもこれからずっとキュビエと寝た女って言われ続けるの! そんなの耐えられるワケ無いでしょ!?
アンタみたいな汚らわしい、そんな化け物連れたキュビエと一緒に何処へ行くって? ふざけんじゃないわよ!!

 彼女の言葉が耳から脳に直接入って内側からあちこちを叩かれているようなガン、ガン、と言う感覚に襲われた。本当に僕が知っている彼女なのだろうか。実は僕は部屋を誤り、彼女そっくりの別人に話しかけているのではないか。そんな事さえ考え始めてしまいそうだ。しかし、目の前にいる彼女は間違いなく僕の愛したアンネ以外の何者でもなかった。
「ア、アンネ。お、落ち着いてくれ。君はきっと興奮してるだけだから、だから……」
「おい貴様ッ、彼女から離れろ!」
 彼女に集中してしまって全く気が付かなかったが、いつの間にか布くんの殴打は終わっていたらしく少佐が後ろから僕の襟首を掴み、無理矢理立ち上がらせた。どうやら銃はまだ拾っていないらしい。
「き、貴様が何故此処にいる!? くそっ、これだから憲兵隊は信用ならんのだ!大体――」
「煩い」
 顔のあちこちが腫れ上がっている様は痛々しくはあったし、アレの殴打する力の強さは身をもって知っているから少々の不憫さを感じる。だがそれより目の前でゴチャゴチャと喚くその声も、僕を掴むその手も気に食わないし応援を呼ばれては困る。
判断するが早いか、次の言葉を待たずに彼の心臓に二発の弾丸を撃ちこんだ。訓練では外してばかりだったが十数センチも離れていないこの距離で外す訳はない。
発砲音と吹き出した赤い血に彼女が叫ぶ。軍属とはいえ人を殺すような職務についていないのだから無理もない。可哀想に、こんな場景を見せたくなかったのだが仕方ない。
僕に掛けていた手を引き剥がすと、少佐の身体は重力のままに後ろへ倒れ込んだ。彼の心臓から流れ出る赤い血が彼を中心にジワジワと広がっていき、僕の顔に掛かった彼の血はゆっくりと温かさを失われていった。彼の死相は撃たれた時のままに目が開いていたが、まあその内、第一発見者か誰かが閉じてくれるだろう。
「驚かせてしまってゴメンよ。でももう大丈夫だから……アンネ?」
 彼女を落ち着かせるために穏やかな調子を意識して振返ると、彼女の手には少佐が落とした拳銃が握られていた。僕が少佐の方を相手している間に落ちていた銃を拾っていたようだ。震える両手でしっかりと握り、僕に照準を向けている。
「ア、アンネ、落ち着いて」
「来ないで!!」
 銃を構えながら張り上げた彼女の声に気圧され、反射的に銃口を向けてしまった。それを見た彼女の目には敵意の色が込み上げた。ああ、違うのに。こんな表情をさせるためにここまで来た訳では無いのに。
 でも何故、何故この銃を下ろせないのだろうか。彼女を撃ちたい訳では無いのに、頭の何処かで彼女への牽制が必要であると判断している自分が居る。嫌だ、嫌だ。彼女を失ったら僕は――
「アンネ、やめてくれ。こんな事してる場合じゃないんだ」
「煩い!ア、アンタの所為で全部台無しよ!アンタが死んだ後も、少佐の女にでいれば守って貰えると思ったのに!」
 愕然とした。彼女は数年を共にした僕よりも、知合って一年かそこらの男を選んだと言うのか。僕が死ぬ事を前提として、確実に僕が消える事を分かった上で。
 細く開いたままの扉の向こう側から軍靴の固いヒールが床を蹴る音がする。先程の銃声が誰かの耳に届いてしまったらしい。もしこの状況が見つかれば間違いなく現行犯で捕まる。否、この場で少佐と同じ末路を辿る。この場から逃げ出すには彼女を始末していく必要がある。助けを求めないように、背中を撃たれないように。
 いいや駄目だ、彼女を撃つなんて出来ない。だが、この場で銃殺刑にされる事も出来ない。ならば、ならばいっそ、彼女と心中でもしてみせようか。いや、それも無理だ。
 銃を向け合ったまま、どうすれば、どうすればと考える。頭の中に現れた天秤が左右に激しく揺れ動いている。秤の皿に乗っているのは『命』――『僕』あるいは『彼女』の命
 死にたくない、だが殺したくない。どうしたらと揺れる心を示すように秤は揺れている。その時、今となっては夢の中でしか聞くことのない、あの男の声が聞こえた。

  ――愛に殉ずるか、自らの生にしがみ付くのか。それはお前にしか選べない。

 遠くに聞こえていた筈の駆け足の音はもうすぐそこまで来ている。

  ――さあ選べ。両方を取る事など、許されない。

 銃を握る手が夕陽に照らされ、オレンジ色に染まっている。まだ二人だけしかいないこの部屋に、安全装置の外れる金属音が響いた。

「   」

 言葉は二発の銃声に消えた。












 何処に向かうでもなく歩き始めた。ふらふらとした足取りを示すように、ポタリポタリと紫の血が硬く乾いた地に落ちる。少しも進まない内に引きずっていた足がもつれ、硬い土の上に倒れ込んだ。
 顔にかかったこの赤い血は誰のだろうか。今はもうその赤を失い、固まり始めているこの血は誰の物だったろうか。
僕の物ではない。そうだ、僕の血はこんな色をしていない。僕の血は、もっと醜く混濁した色だ。
 左腕が痛い。そういえば、誰かに撃たれた気がした。右足が痛い。思い返せば逃げる時、誰かに撃たれた気がした。
その誰かはどうした?そうだ、撃たれたから、撃ち返した。撃たれたから、殺した。撃たなければ、僕が死んでいた。
何で撃たれたんだっけ。そうだ、僕が、選んだから。僕が、自分の生を選んだから。僕が、僕が、僕が僕が僕が僕が僕が僕が――――
「ア"ア"ア"アアアぁ!!」
 僕はただ望んだだけだ!普通の家に住み普通の物を食べ、普通に働き普通に恋をして普通に家庭を持つ、そんなごく普通の、ヒトの未来をただ望んだだけなのに! 僕はただ――!

 人間の手首のように括れた部分を掴んで更に体内からその長い体をズルリと引きずりだす。無理矢理の感触は気持ち悪かったが、そんな事を気にするでもなくその体を硬い土の上に叩きつけ、馬乗りになった。
今すぐにでも込み上げてくるこの感情を何かにぶつけなければ気がどうにかなりそうだ。いや、そんな事を考える余裕さえも無い。気付けば固く握りしめ、震える拳でそれを殴りつけていた。
「何が、何がキュビエだ!畜生!僕だって好きでこんな身体になったんじゃない!お前が、お前なんかがいるから!!僕はいつまでも、っ!!」
 コブの言葉は体内から込み上げてきた血が遮られ、ゲホッと咳き込むと暗い紫の血が掌や地に落ちてきた。怒り任せに自分の内臓を殴り続けたも同然なのだから当然の事だ。
 咳が治まり、掌に落ちた血を見て冷静になったらしくホーと深く息を吐くと、顔の横面をキュビエの白い体が殴打してきた。それをもろに喰うと勢いのまま、地に転がった。血を吐き、殴られた事で落ち着いた心はポッカリと穴が開いたようだった。
 自分の顔を覗き込むような動きを見せる相棒を今度は優しく引き寄せると、その体にそっと腕を回した。抵抗することなく、地の上に横たわる宿主の身体を包むように大人しいその生物を抱き締める力は零れた声と同じくらいに弱々しいものだった。
「僕はただ、ヒトになりたかった……」

・話の要約:
コブがこっちの世界に来るきっかけとなった通報をしたのは、実は身分思想肯定派だったコブの恋人。
それを知ってもなお、こっちの世界でならきっと一緒にやっていけると信じて誘ったら断固拒否の上、腕を撃たれた。
このままだと銃声を聞いた兵士たちが駆けつける。そうなったら自分は殺される。
死にたくないから彼女を殺して逃げた。帰る場所はバスラルしか無かった。
これからどうなるかは、まだ分からない。
・シレネの花言葉:偽りの愛/欺瞞/罠