あんころもち

【リアリスト・イブニング】



その日は珍しく外出していた。外出と言っても、遊郭からそう遠くない距離にある公園までのちょっとした散歩である。
流石に一人という訳には行かないので供を連れての散歩だが、カラコロと下駄を鳴らして気ままに歩くのは楽しいものである。
目的地の公園に着いた辺りでふと足元に違和感を覚え、足元を確認すれば下駄の鼻緒が切れてしまっていた。
「あら、困ったわねえ」
流石にこのまま歩いて帰れる訳はなく、だからと言って担がれて帰るのは不格好である。
「車でも呼びましょうか?」
供の提案は悪くなったが、ただ現在地から遊郭までは車を呼んで帰るほどの距離でも無いし何より歩いて出て行ったのに車で帰るのはつまらなかった。
そうねえ、と言いながら思案していると一つの案が浮かんだ。
「そうだ。悪いけど、一度戻って替えの下駄を持ってきて頂戴」
その提案に一瞬渋い顔をした供の気持ちは分からなくもなかった。太夫を一人にしておくなど、従業員にとっては許しがたい事であった。
「どうかなされたのですか?」
相談し合う二人の背後から声がした。振り返ると軍服を纏った隻眼の青年が立っていた。
突然声をかけてきた軍人に対し、供の訝しげな表情を見た青年はキビキビとした所作で敬礼して名乗った。
「突然失礼致しました。自分は明陽軍の者です。御無沙汰しております、識依殿」
「此方こそ御無沙汰してんす巨泉様。ああ、こちらはわっちのお客様の御子息でありんす」
軍人と知り合いだったらしい太夫は供の者に紹介し、軍人も供の者に会釈をした。
「巨泉様はどうしてこちらに?」
「自分は少々野暮用で通りかかったところです。御二方はこんな所で、ああ……」
夕刻が近くなっているとはいえ、一介の軍人が花街の近くを歩いているのを少々疑問に思った太夫の問いかけに答え、逆に何をしているのかと言いかけたところで、太夫の鼻緒が切れた足元に気付いた。
「鼻緒が切れてしまいんしてね、替えを取ってくるかどうかで話していたところなんでありんす。でもわっちが一人で残るわけにもいかないでありんしょう?」
ふふ、と眉を下げて笑う太夫の表情を見て軍人は一つの提案をした。
「流石に遊郭の中へ行くわけにはいきませんが、僭越ながら自分が一緒にお待ちしましょうか?」
軍人の申し出は二人にとって悪い物ではなかった。一般人であれば考えるところもあるが、相手は日頃より治安を守っている軍人で太夫とも顔見知りの人物だったからである。
「でも御勤めの方はよろしいんでありんすか?」
「ここから行って戻ってくるまでを待つくらいの時間なら有りますのでご心配せずとも大丈夫ですよ」
太夫の言葉に対し、軍人は快く答えた。そう言うのであればと、太夫は頼む事にした。
「では、お言葉に甘えさせて頂きんす。あんたもよろしくね」
供の者を送り出すと、太夫は近くの腰掛けに座り軍人は側に立った。
暫く会話をするでもなくそのままでいたが、不意に太夫は口を開き、軍人へ話しかけた。
「聞けば参謀へ御昇格なされたとか。おめでとうござんす」
「有難う御座います。若輩者には些か過ぎた人事とは思いますが、粉骨砕身の精神で務めさせて頂く次第です」
太夫の謝辞に対しても生真面目な姿勢を変えず、視線も真っ直ぐに向けたまま言葉を返す。
「粉骨砕身--で、ありんすか」
「ええ」
言葉尻を捉えた太夫の声色はそれまでの穏やかな物とは別の物が含まれていた。
「わっちには何処か、功を急いているように見受けんす」
「まさか。自分はただ、軍属としてすべき事をしたまでですよ」
太夫の言葉に軍人はシレッとした態度で答えたが、太夫は言葉を続けた。
「まだ、あの事に拘っているのでありんすか?」
「だとしたら?」
「そのために身を砕くと言うのなら、それはおやめなさい」
「何故そのように仰られるのかが分かりませんね」
「ぬし様が目指している、お家の再興なんてものは、する必要ないからでありんす」
「っ、何故そこまで否定するのですか!」
自身が軍に入った理由そのものを否定する太夫の言葉に冷静でいられる程、軍人は経験を重ねておらず太夫は冷静な態度を崩さずにいられるだけの経験を重ねていた。
「では聞きんす。ぬし様は何故そこまで固執するのでありんすか?」
「偽りの名など、長く名乗れば名乗るだけ本来の名は忘れ去られる。あの家が戻れば貴方だって、姉上だって彼処から出られる! それに、情華だって--」
「やめておくんなんし。わっちはそねえな事を求めてはいんせん」
軍人の言葉を遮ったその言葉は、静かで冷静でありながら、キッパリとした物言いであった。
「あの子は探す必要がありんす。だけどわっちは、この平穏が乱れる立場など求めてはいんせん」
「あんな事、二度と起こさせやしません」
一歩も譲ろうとはしない二人のやりとりは最早、不毛な水掛け論でしかなかった。
「鉢が無くとも、花は地に根を張りその身を咲かせんす」
「そうでしょうね。ですが--」
軍人は太夫の言葉を肯定しながら立ち上がり、一旦言葉を区切ると軍人は太夫の方を振り替えった。
太夫の向こうに、荷物を持った男の姿を捉えると視線を太夫に向けて言葉を続けた。
「器が無ければ水は地に落ち、もう戻れません」
失礼、そう言って一礼をすると軍人は太夫の横を過ぎて戻ってきた供の傍へ近寄り、軽く別れの言葉を告げた。
そのまま振り返る事無く立ち去る軍人の背を太夫はその背を見送るしか出来なかった。
軍人が去った後、太夫も供の者が持ってきた下駄に履き替えると帰路に着いた。
『――情華、貴女、一体何処に……』
空を仰ぎ見ながら一人ごちた言葉は誰に聞かれるでもなく、日の傾き始めた空に消えた。



没落した貴族の三人姉弟、散り散りとなりててんでばらばら。
片や遊郭で春を売り、片や貴族へと養子となり、片や行方不明で今いずこ。




・太夫の座は伊達じゃない識依と、見た目も中身も青い敦志。
・文の途中で飽きてた事は正直に謝る。誰にかは分からない。
・ああ、そういえば姉弟でした。

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夜鷹