【 ニゲルの休眠 】
もうずっと前から消えてしまいたかった──
それが遂に叶うのかもしれない。そんな事を少年は考えていた。
自分以外誰も居ない掘立て小屋の中で、地面に置かれた一枚板の上に少年は横たわっている。庭の手入れに使う器具や屋敷の補修に使う材木などと一緒に真夏の熱気に包まれていた。
今日は一段と暑く、また夜明け頃まで降った雨のせいでジットリとした湿気を含んでいた。
(あついなあ。お水、のみたいなあ)
少年は板の上から動こうとしなかった。正確には動く気力さえ失われているのだ。
頭が鈍痛を訴え始め、額に手を置くと少し前までは拭っても流れ出た汗は浮かび上がることすら止めていた。
熱気ですっかり温まった息を吐きながらコロリと寝返りを打つ。少年はそれまで背にしていた小屋の戸を見つめた。
──おにいさま!あけてください、おにいさま!
何度も戸を叩き、その向こう側にいる筈の、小屋の戸の鍵を握りしめている兄を呼び続けたのはどれくらい前のことだろうか。
──だれか、だれか!ここをあけて!おねがいだから!
何度も戸を叩き、屋敷に仕えている使用人の誰かが開けてくれるのを願って助けを乞い続けたのはどれくらい前のことだろうか。
しかし状況が変わっていれば少年は今頃、屋敷の中で女中に汲んで貰った水を三、四杯は飲んでいた頃合いだ。
少年は大きく息を吸ってゆっくり吐いた。肺を出入りする空気の暑さには少年も参ってしまう。
今夜は屋敷で少年の父が友人たちを集めてパーティを催す日だ。使用人たちはその準備に追われ、庭の片隅にあるこんな小屋のことなど気にも留めないだろう。
兄も、鍵を掛けた方の兄も今頃は家庭教師が付きっきりで勉強をしている時間の筈。
少年はそれを悟って戸を叩くのをやめたのだ。
物心ついた頃から、もしかしたらその前から少年に対して兄たちは厳しい態度だった。
下の兄は弟を小突き回し、押しのけ、揶揄い、上の兄は末の弟など居ないかのように無視することが多かった。
作法に厳しい老女中や長く家に仕えている執事はそれを窘めたが、その程度で改めるような年頃ではなかった。
何より、その様子を知っている筈の父が止めないのだから尚のことである。
少年は、そんな兄たちの行為を父が見逃している事を納得出来ないでいた。
乱暴な兄から逃げ出して助けを求めようとしても、暇ではないの一点張りで取り付く島を与えなかった。
末子を気にかける素振りは殆ど見せず、時には上の兄のように無視することさえあった。兄たちの自分に対する態度の理由は分かっていた。
妾腹である自分が気に食わないのだ。恐らくは祖父母か近親の誰かしらが話していたのを聞いたのだろう。
だが、父の態度については分からないでいる。実子であることは間違いない筈なのに、顔も知らぬ母から引き取り共に暮らしているというのに、何故父は自分に冷たく当たるのだろうか。
少年にはその理由が分からないと同時に哀しさで幼い心を軋ませた。
(このまま、とけちゃえばいいのに。きえられたらいいのに)
いつしか抱き始めた思いが込み上げてくる。
陽気に耐えきれず土に溶けていく雪のように、どろどろと溶けいってしまえたらどんなに良いだろうか。
そうすればきっと、父も兄たちも他の大人たちも、何より自分自身がきっとこんな思いをせずに済むのだから。
鈍かった頭の痛みは段々と強くなっている。何なら胃の辺りに不快感すら覚え、頭の中がボウ、とぼやけ始めていた。
そのせいで遠くから、近くから聞こえてくる音の正体を判別するだけの思考がままならない。
誰かが少年の名を叫び、抱きかかえた所で彼は意識を手放した。
・
夏は暑いと相場が決まっているが、今日はやけに暑い。そんな話をしながら軽装の男たちが屋外の倉庫にいた。
道具の掃除と古い物を整理せよというのが上官からの指示だ。
最初こそ日差しと訓練から逃れられると喜んだ者もいたが、生憎待ち受けていたのはむんわりと熱を帯びた空気と埃だった。
それでもやるしかないと作業を始めたのが数刻前。過ぎていく時間と共に汗を流しながら、手を動かし続けた甲斐があって何とか終えることが出来た。
汗と埃に塗れた男たちは上官への報告を済ませると、そのまま水汲み場へと急ぎ足で向かった。
その道中、同僚の一人があとで塩を舐めた方が良いと言い出した。その昔、田舎の祖母から暑さに倒れないようにと教わったらしい。
そこからは何故か暑さに対しての話題で持ちきりとなった。
「そういえば」
それまで相槌を打つだけだったマリー=ジャックは不意に口を開いた。
「汗を流しすぎると水が飲めなくなるんだ」
へえ、と言う者もいれば、まるで経験者だと笑う者もいた。それに合わせて彼も同じように柔らかく笑いながら続けた。
「もう随分昔の話だ」
・副題:熱中症には気を付けよう。
・この時助けに来たのは父ではなく執事です。